S井さんのところの猫たちは
4匹の成猫がは友人が保護。避妊去勢手術(Neuter)をした。
4匹の仔猫もその友人が保護し、譲渡会に出す準備をしてくれている。
7匹はここ戻して(Return)、4家族で各猫たちの担当を決めて餌をあげている。そのうちの4匹はS井さんのご主人がご健在だった頃に避妊をしている猫たち。
S井さんの家の一寸先を入った裏の細い路地に、猫に餌をあげているおじさんがいるとは、噂に聞いてた。10日ほど前その路地を通ったら、目ヤニのひどい仔猫がいた。友人に写真を送ると、このままにしておくと失明する可能性もあるので薬を飲ませればいいということで、薬を分けてもらう事になった。
餌をあげている人がいるから、勝手に餌とか薬をあげるのはどうかと思い、餌をあげているおじさんの家を何度か訪ねた。電気やテレビの音がするのでドアを叩いて、「こんにちわ」と大きな声でいっても誰も出てこなかった。
その数日前には、そのおじさんの家の周りの家を訪ねて、猫の状況はどんな感じですか?とヒアリングをした。
目ヤニのひどい仔猫は私を知らないので警戒をするから、なかなか薬を飲ませられなかった。
数日後の朝、餌をあげているおじさんがいた。
「おはようございます。目ヤニがひどい仔猫がいて、このままじゃ失明する可能性もあるらしく、お薬をのませようと思っています。何度かドアを叩いたのですが、音がしてても誰も出てこなくて」
「90歳の爺さんが住んでんだよ。動けないからね。」
「ねたきりなんですか・・・」
「彦島から来て猫に餌をやってるんだ。生活保護の爺さんで金ないのに。餌代もばかにならないのにな。餌やっちゃいけないんだろ?でも、保健所に連れて行かれたら殺されちゃうでしょ。」
彦島は、ここから車で20分くらいかな。近いわけじゃない。
「餌をやったらいけないのではなく、猫ってすごく増えるらしく、まずは避妊去勢をしないといけないみたい。何匹くらいいるんですか?私もちょっとわからないから、友達に相談してみます。」
「そういう活動をしてるの?」
「いやそういうわけじゃなく、あそこにS井さんいたでしょ。引っ越して猫15匹くらい置いていったんです。それで、たまたま友達が猫のことをやっていたので、助けてもらったんです。」
「ああ!あの猫がいっぱいおったところかね。ここは、7匹くらいいるよ。それと、この黒が仔猫産んだから10匹くらいいるんじゃないか」
おじさんは忙しいらしく、家の中に入っていった。中から、お爺さんに私のことや猫の避妊去勢のことなどを説明しているのが聞こえた。
近所にヒアリングをしたけど、餌をあげているのは寝たきりのお爺さんで、お爺さんの知人のおじさん(多分70歳くらい)が彦島から毎朝来て世話をして、餌をあげているというのは、知らないと思う。
お爺さんも、そのおじさんも、猫は保健所で殺処分されるのが当たり前だった時代の人たち。今は、殺処分を減らして、環境省がTNR( Trap(捕獲)Nueter(避妊)、Return(元の場所に戻す)を進めていっていることを知らない。私もS井さんの猫たちに関わるまで知らなかった。
どうして、寝たきりの90歳のおじいさんが猫の餌を買って、そのおじさんに猫に餌をあげてもらっているのか。だって、おじいさんは、寝たきりで、猫を見ることも愛でることもないんじゃないかと。
腑に落ちなかった。なんのために・・・。
今朝、こんな仮説のようなものを立ててみた。
おじいさんは、猫に会えなくても、愛でられなくても、猫が生きていること、猫の「生」に自分が役に立ててること、猫に必要とされていることが、心の支えと喜びになってるんじゃないかと。
思い返してみると、S井さんが猫たちに餌を上げる様子を見ていてもそうだったように感じる。ご主人が他界し、ご主人の介護がなくなり、町内の猫の問題で地域の人達からも孤立し、猫が餌を貰いに来る、必要とされる、猫たちの「生」に役立てる・・・。
人間は、誰かの役に立ちたい。自分が生きている事を肯定できる何かがほしい・・・。年を取って、衰えていき、誰かの助けを必要とするようになる。そんな中で生きる尊厳というか、支えというか、猫たちは与えてくれているのかもしれない。
猫を助けてるんじゃなくて、「生」のために必要だと思わせてもらえてる。猫のほうが長く生きるから、高齢者は猫を飼うことはできないそうです。でも、そういう方々こそ、猫が必要なのかもしれないと思った。
近隣の猫の問題を知っていく中で、それは猫の問題ではなく、社会の、コミュニティの、コミュニケーションの「人間の問題」だと感じるようになった。
90歳の寝たきりお爺さんと猫たち。
お爺さんは猫を愛でることもできない。それでも、生きる支えになってるのかもしれない。