だいぶ、すずしくなりました。

でも、まだちょっと暖かく、汗ばみます。

ケージの中を見ると、ちょっと汚れてる。敷いているタオルもちょっと汚れてる。

洗うか・・・。どうするか・・・。

この子達は、今後どうなるんだろう・・・。できれば、外に。できれば、僕たちの町の地域猫として、担当が決まってくれると良いとおもう。

譲渡に出したほうがいいと言われることも時々ある。

でも、譲渡に出す、検査、薬、ワクチン、お世話。感染予防の隔離。

「保護」「里親」「譲渡」「保護団体に」と、結構簡単に人は言う。私も簡単に思ってた。だけど、知ると、結構、かなり大変で、お金と手間もかかる。

あるクリニックが、一頭につき3万円で里親探しを代行してくれる。この町の人達が、自分たちで、譲渡に出す準備をして、譲渡会につれていくか、もしくは、3万円で委託するか。もしくは、保護活動の人たちにそれなりの寄付をして、里親探しを依頼するか。

6月に、4頭の成猫と4頭の子猫を引き取ってもらった。

この町の猫たちの避妊手術の助成金の抽選には漏れたらしい。その費用をこの町の外の人が負担する。

この町の問題。

見て見ぬふりをして、関わらないようにして、誰かが悪いと言い続けて、また猫が生まれる。生まれた子猫はカラスに連れて行かれたり、車にはねられたり、でも、半分くらいは生き残り、誰かが見過ごすことができず、隠れて、餌をやる。

餌をやる人たちが悪いと強く言う人達。攻撃避難をされたくないからか、隠れて餌をやる。

私は猫たちが可愛そうとか、思わない。

猫たちを助けてるわけでもない。

自分が生きている、暮らしている、日本の、この町の、社会や人間が気づかない限り、閉塞感の有る、息が苦しい、何が本当で、何が建前で、何が嘘か、わからない、大人たちが作ってきた社会が、嫌だから。そういうシステムを次の、次の、次の、世代に引き継いでしまっていると、今回猫のことでも感じた。

猫を救う前に、人間たちに救いがいるのかもしれない。

それには、まずは気づいて、自分を軸に生きていくことだと思う。

自分自身が、気づいて、変わろうとしない限り、人が長年持ってきた習慣や考えを変えることは非常に、非常に難しい。

誰かが、何かをやってくれるわけではないと思う。自分で考えて、自分がどうするか。考えたくなかったり、自分でどうにもできないのだったら、そういう無力な自分に気づいてほしい。そうすると、きっと変な正義感とかが減って、謙虚な気持ちを持てる気がする。

迷惑だと思っていた猫たちのうち、8頭を連れて行ってくれた人たちや、お金を出してくれた人たちへの感謝。感謝は、言われてすることじゃないと思う。自分で気づくことで、湧いてくるものだと思う。

当たり前じゃないから、有り難い。はず。

8頭の猫を連れて行ってくれたことは「当たり前じゃない」。

この町と関係のない人たちが、避妊の手術費用を出したことは・・・全く当たり前じゃない。

 

メヤニー、麻生美、麻生子。

今の状況では、3頭の子猫は、譲渡には出さない。その費用と、準備とお世話、だれかがやってくれた、当たり前じゃないことに気づかないのであれば、きっと6月に連れて行ってもらった8頭のときのように、ただ「居なくなってよかった」と、心で思ったり、影で言ったりするだけなんだと思う。

寒くなると、猫を洗うことは体の負担になるらしい。それと、もしも、この町の人達が、譲渡の費用や準備をして、里親に託すのなら、子猫のうちに、すこしでも水に慣れておいて、洗える猫たちになっておいたほうがいいかもと思ったの。

洗い終わると、みんな、自分の体をペロペロ、ペロペロ舐めてた。

自分の匂いをつけてるのかしら。って思った。