「猫たちを助けようとか、護ろうとか、思っていない。」

そういうと、怪訝な顔をされたり、自分勝手な人だととられる事があります。


私は何のために生まれて来たのだろう。

私は生まれて来てよかったのか、私に価値があるのか。

私は歌うことが大好きで、ニューヨークに住み歌を学びはじめました。ニューヨークに住んでいた、20代の頃の私は、悩み、考え、苦しんでいました。とても苦しんでいました。

少し変わっていたというか、感性や観点が多くの人と違っていたようで、小学生の頃はクラスでいじめのターゲットになり、学校でも、社会でも、私は居場所がなく、成績も悪く、自分に自信が全くありませんでした。

音楽だけが、夢であり、希望でした。

私が生まれて来た、意味や価値は、きっとある。でも自分を信じる力がありませんでした。

1999年、私は、第二次世界大戦時代のアメリカの流行歌を、その時代を生きたアメリカ人ミュージシャンたちとアルバムを自主制作し、アメリカ全土の要介護老人ホームにそのCDを贈りました。

それは、第二次世界大戦で戦った国日本で生まれ育った子が、彼らが愛した、もう忘れかけている様な歌に息吹を入れて、彼らの元に、戻す。還す。

「あなたたちの歌は、まだ生きてます」と。

私の歌は、憎しみや、悲しみを超える事ができるのか。

このプロジェクトは、多くの日本のメディアにとりあげてもらう事ができ、私は、老人ホームにボランティアを行う「いい人」と思われる様になりました。

だけど、そう思われることで、私は精神的に苦しくなり、家族との関係の問題も重なり、精神的に病んでしまいます。

私は、変わっている、おかしい、恥ずかしい、困った子として、家族に扱われて来ました。私が自分の存在意味や価値に疑問を持ち、自己肯定感を持つ事ができず、悩んできたのは、それが根底に染み付いていたからだと思います。

そういう私は、誰かの為、何かの為、善いことをして、評価されないと、もしくは私が行った行為によって、誰かが笑顔になるということで、自分の存在価値を保とうとしていたのだと思います。

そういう私を、根底からひっくり返し、根底から支えてくれる人たちに出会ったのはキューバでした。

ニューヨークで出会った亡命キューバ人のミュージシャンでもある友人の家族はとても金銭的に貧しい人たちでした。父親はお酒をやめられず、その友人が送ってきたお金でお酒を買ってしまう。だから、彼は父親への送金をやめ、お父さんはとても難しい関係でした。

私は、その家族ととても深く関わっていく事になります。

アメリカからの経済制裁が続く社会主義国キューバでの暮らしは、とても難しく、日本で生まれ育った私にとって、その家族の家や暮らしは、今まで関わった人たちの中で一番、貧しかった。それに加え、ラテンの気質もあると思うのですが、計画的にお金を使うこともできません。

いつも、ギリギリで、お金がありません。

私は、私にできる事がないか、お父さんに聞きました。でも、彼はないと言います。だけど、私は時々、金銭的に援助をする様になりました。彼らの家に行くときは、食費を渡しました。15ドル程度です。その15ドルで1週間何とかやりくりをして、と言いました。

日本では、いつも貧乏側の私が、誰かの役に立ててる。助ける事ができてると、私は、うれしく感じたし、「役に立ててる」。

いいえ、それは、彼らがいたから、「立てて」いたのだと、それから何年かして気づきます。

外国人の私の暮らしも、人間関係も、簡単じゃありません。外国人とキューバ人にははっきりとした壁があります。日本人の私には理解が非常に難しいことや、状況がありました。

そのお父さんは、外国人の私を、全身全霊で信じ、支えてくれました。お父さんは2年半前に他界しましたが、お父さんの想いや、愛は、今も私を支えてくれていて、私の中にいつも生きています。

私は、誰かを助けたのではなく、私が助けられ、救われました。

人の為と書いて「偽」と書きます。本当は、「人の為」ではなく、自分の為。そのときは分からなくても、全てが「自分の為」だと気づく事ができたら、見えている世界が変わる様に思います。

誰かや何かを「助ける」ということは、深く考えると自分の為、自分がそれで救われているのかもしれません。

 

ただの、成り行き。そういうめぐり合わせで、猫たちと関わっているのだと思います。そして、その経験が、きっと、また、私の人生を豊かにしてくれる様に思っています。

キューバで暮らし、友人のお父さんと巡り会い、私の人生を豊かにしてくれたように。