わたしにとって、猫たちにとって、どういう距離感で、どういう形で、暮らすのがいいのか。
まだ模索中。わからないことだらけ。

ネットを見たり、人に訊いたり。いろいろ試したりしてる。でも、わからないんだ。まだ。

リラ星人とヴェガ星人。

ヴェガはリラのお母さんで、もともとはS井さんのご主人が避妊してかわいがっていた野良猫。ずっと姿を見せてなかったけど、最近戻ってきたんだ。

家の中にいるのがいいのか。外がいいのか。わからないんだ。それと、ひとり暮らしで動物を飼うというのは、飼うというより、一緒に暮らすのは、結構大変。この前は、体調崩して発熱したりしてたんだけど、10日間くらい。猫の譲渡でひとり暮らしは要相談みたいなのがあるけど、よほどの猫好きじゃないと猫のお世話も簡単じゃないなと。

ヴェガは家の中にいると、非常に大人しく、でも粗相をするのよ。で、ケージに入れておくと、おしっこほとんどしないのよ。で、わたしは掃除に追われる。

昨日の夜、外に出してみた。大きな石の上に座ってる姿とか顔見てると、わたしもなんか嬉しくなった。ヴェガはそこで風に吹かれてるのが好きなのかなぁ。

今朝は、玄関の内側で朝ご飯を食べさせて、また外に出してみた。外に出すと、ご飯も好き嫌いせずよく食べる。

リラの鼻水と目やにが気になるけど、外にいるほうがイキイキしてるとは感じる。どうしたらいいのか、わからないんだ。

今朝も起きて、色々考えてた。なんで、こんな事になってるのだろうとか。

でもさ、みんなに文句言われて、迷惑がられてる猫たちを見て、そういう人達を見て、すごく嫌だったんだ。すごく、すごく嫌だったんだ。すごく、すごく、すごく、嫌だったんだ。

誰かや何かが悪いとか言って、見て見ぬふりするか、自分たちが今までどんなに迷惑を被ってきたのかと言われても、目の前には置いていかれた猫たちがいて、「じゃぁどうするのか?」しか、わたしには解らない。「じゃぁどうするのか」を考えてやってみるしか解らない。

でも、「じゃぁどうするのか」には、多分マニュアルとかにないんだよ。だからやってみないとわからないと思うんだ。もしかしたら、戦後そういう教育とか社会を日本は作ったんだと思うんだ。

わたしの中に、消えない経験があって。景色があって。それは、小学校のときの教室でのこと。わたしはすごく虐められてたのね。教室の木の床で、いろんな足から蹴られてた。なんでそんな目に遭ってたのかって、よくわからなかったけど、大人になって気づいたのは、担任の先生が仕掛けてた。

今でも思うんだ。きっとわたしを笑いながら蹴っていた人たちは、空気の中でやってたんだろうなって、もう殆どそんなこと覚えてないだろうなって。みんな見て見ぬふりをしてたり、遠目でどうしていいか解らない感じで見ていたり。止めようとしてくれた人もいるけど、結局そういう人のほうが少数で、何も考えず空気に流される人のほうが、圧倒的だった。

わたしが一人で、考えたり、行動したりする根底には、その時の経験と、疑問があるんだと思う。人が集まると、怖いんだ。自分で考えない人たちが怖いんだ。

今回のことは、何度もその頃のことを思い出した。
ああいう、教育や社会がこの国の人たちを大人というか、年を取らせていったのかもな。それは、わたしより上の年齢とかじゃなく、私達世代もそういうのはよくある。若い人たちのことはまだあまりわからない。

まだ、猫との距離や、暮らし方がわからない。
そんなに猫好きじゃない私に負担にならない、距離とか、暮らし方がきっとあると思う。
ただ、こんな巡り合わせて、こんな経験を、今してるのだと思う。

未来はわからない。
私自身の体のことも、わからない。
私が病気をしたり、入院をしたり、この家の老朽で出ていったり、ってことが無いとは言えない。それは、無責任なのか。そう言われたり、責められると、何もできない。

私になにかがあっても、この子達は、今までなんとか生きてきたように、きっと生きていける。その力を無くさないように、この子達との距離や、私の暮らしを考えていかなきゃ。

無責任で居るか、誰かのせいにしたり、誰かを責めたり、誰かに責任を問うような、無責任な社会だから。だから、見てみぬ振りもこの社会を生き抜く方法なのかもしれない。だけど、猫が悪いとか、誰かが悪いとか、言ってる、そんな人達や社会が、とても、嫌だった。とても、とても、とても、嫌だったんだ。