猫の事に関わりだして、思い出すことがあるの

私がニューヨークのイーストビレッジに住んでいた頃だから、30年以上も前。

私が住んでいた所はセントマークスプレイス(8丁目)で、イーストビレッジでは目抜き通りのようなものだった。

豚の散歩をしていた人がいたの。忘れもしない、この写真の左側のところ。

ピンクでとってもかわいい豚なの。で、最近思うの。あの豚と、わたし達が食べる豚は何が違うんだろうって。

猫の命と豚の命は大切さに差がある・・・大切と捉えられるのに差がある。

猫の小さな命と、豚の小さな(大きくなるが)命・・・。

 

ここの所、ずっと考えてたの。

イーストビレッジで見たあの豚と、日々食べているこの豚と、最近やたら関わっている猫たちと。何が違うの?って。

それは、「認識」と「関係性」なんじゃないかと。

その生き物と、名前を知って(もしくはつけて)、1対1のコミュニケーションや何らかの、相手を個として認識し影響し合う関係性を持ったら、食べれなくなるというか。食べ物、単なる食肉ではなく、食べる事に躊躇する。

それは、動物に限らず、人間どうしても。もちろん、同種の生き物「人間」という共通項があるが、テレビニュースで老人の家に強盗が入って、金品を盗まれ残虐な殺され方をした。というニュースがあるとする。もちろん気持ちの良いものではないが、「残酷な事があるのね」と、他人事。でも、それが、自分の親だったら。知り合いだったら・・・。そのショックの大きさはかなりなものだと思う。

親や、知り合いとの間には「認識」と「関係性」がある。そこにチャンネルや、繋がりがある。

関係性があるか、ないか。

先日、寝たきりおじいさんの猫たちに餌をあげていたら、ある方が猫ですごく困ってるし、苦情ももらうと。保健所で捕獲器を借りたけど、捕獲も簡単じゃなく出来なかったと。

猫って、結構ちゃんと色々解ってて、人間を見てる。自分との関係性を解ってる。みたい。

その方は、多分、迷惑なものとして、猫を捕獲して、保健所に持っていこうと思ったのだと思う。私たちが、比較的、かなりすんなり猫たちを捕獲して病院に連れて行ったりできているのは、数週間前から猫たちの様子を見ながら、餌をあげて、関係性を築いているからなんじゃないかと思う。

私は、しょーじき、猫とかどうでもいい人。

それでも、こうやってそれぞれの猫と関わって、関係性が生まれると、それはただの野良猫じゃなく、個性を持った一匹の猫になる。そして、その猫は私を認識している。そうなったら、私にとってもその猫は、その辺にいるただの野良猫じゃなく、世界にひとり(いっぴき)だけの個性を持った、猫になっていたりする。

その辺の、名前も知らない、名前のない、野良猫が車にはねられて死んでいても、「あ、猫が死んでる」ってだけだけど、私が関わった猫が車にはねられて死んでいたら、多分すごく悲しくて、やるせない。もし、それが、私の担当しているリラかヴェガだったら、私はすごく悲しんで、泣くと思う。

私は、リラとヴェガとの間に関係性を持った。

私にとっては、あの豚も、この豚も、あそこらの猫たちも、命の重みとか言うのに違いはそんなにない気がする。関係性が違うだけなのかも、とか思う。

イーストビレッジで見た豚は、ほんとに可愛かった。

今日も豚肉を食べた私でした。その豚とは関係性はなく、食肉でしかないから、食べれる。食べたい。

でも、明美ちゃんでも、由美子ちゃんでも、彰君でも、名前があって、「明美ちゃん、おいで(*^-^*)」って言ったら、「ブヒブヒ」って来てすり寄ったり、見つめられたり、見つめあったら、食べるのにはすごく、すごく躊躇すると思うわ。食べれないし、死んでほしくないと思う。願う。

 

キューバで食べた豚の丸焼き。ジューシーで美味かった。