昨晩夜中、「ぼくの町のある女の子」が夏休みに取り組んだ自由研究「地域猫への取り組み」をサイトにアップしました。

小学5年生。彼女は獣医になりたいと言っていました。

ここでは彼女のことをリリーと呼ぶことにします。

私がS井さんが残したいった猫たちのことに関わり、取り組みを始めると、リリーは最初は躊躇しながらも、とてもうれしそうでした。

捕獲作業のときには子どもたちはいない方がいいのですが、最初の捕獲のときにたまたま居合わせたかのように、そこにいました。

彼女と、私と、彼女の家族たちと、猫たちはそれぞれの距離を近くしていきました。

リリーには2歳年下の妹がいます。妹は無邪気で誰にでも入っていきます。でも、リリーは時々躊躇したような目をします。お姉ちゃんはいつまでも無邪気な子供ではいれないのかもしれません。

リリーと彼女の母親が、真剣に向き合って行動する姿は、珍しいことのように私の目に映りました。

私は20歳でこの国を飛び出し、いろいろな大人たちに出会ってきました。無邪気だった私は、いろいろな大人に、色々なことを教えてもらいました。「教える」といっても、何かを諭されたり、教えてもらうのではなく、彼らの生き方や、彼らの私への接し方で、多くを学びました。

私の心に今も、強く、生きている人たちがいます。

二人の黒人のジャズミュージシャンたち。彼らは、公民権運動以前の、黒人に人権がなく、強い差別の中で生きてきた人たちですが、音楽で彼らは生活を支え、また、彼らは「成功」した部類のミュージシャンたちでした。

彼らはいつも、私を、私の中にあるものを強く信じ、私を支え、背中を押そうとしてくれました。だけど、私は、なかなか前に進むことができませんでした。

私の中には、「無理」「できない」「恥ずかしい」そういう思い込みというか、刷り込みと自分を信じることができない、自分への疑念が強く強くありました。それに気づいたのは、40歳を過ぎてからでした。

日本で「無理」「できない」「恥ずかしい」というようなことを、言葉で言われたり、そう思っているのを相手のやさしい笑顔の奥に感じ取りました

昨晩、リリーの自由研究をサイトに起こしながら、その二人のミュージシャンのことを何度も思い出しました。

地域の人へのアンケートは優しい嘘がいっぱいでした。もしかしたら、アンケートのあとに、協力をしてくれる人たちが結構いるんじゃないかと、期待をさせたかもしれません。もしかしたら、「追い払いたい」といった人たちのほうが、誠実だったのかもとも思いました。

その子が、傷つかないように。自分が悪く思われないように。だけど、現実を動かすには、自分と相手を信じる、強い力がいるのだと思います。

「したい」「こうありたい」思いや理想を語ることは、そんなに難しいことではないと思う。それを実際に行動に移して、現実を動かしていくのは、自分を信じる力と、その人を信じる力がとても大切なんだと思う。今でも私は、よく挫けそうになる。

理想と現実は違う。

動物愛護センターの獣医さんも、まさか自分が「殺処分」する側の人、その作業をする人になるとは思ってもいなかったかもしれません。そういう社会や現実の中で、私達日本人は生きているのかもしれません。

ちょっと昔、誰かが、この国にはなんでもあるけど「希望」だけがないと、メッセージを発しました。

作業をしながら、希望の息を止めさせるような、そんな大人にならないように。でも、そんなおとなたちがいっぱいな社会だったなと、大切なミュージシャンたちを思い出したら涙が出ました。