「メイの毛艶、えらいいいよね」

「黒光りしてるでしょ😁」

「それに、なんか可愛くなったよね。わたし、メイ好きじゃなかったのよ。図々しくて、ふてぶてしくて。どんだけ追い払っても、来てたのよ。ミャーミャーうるさいし、まじ、ウザかった」

ゆかさんが言うには、最近はミャーミャー言わなくなって、ネーラのそばにいるらしい。

だけど、この前、また喧嘩してきたのか、首輪がなくなっていたらしく、ゆかさんのご主人がネットでメイとネーラの首輪を・・・楽しそうに選んでいたらしい。

「なんか、楽しそうだね」

「しょうこさん、ほんとにありがとう」

その「ありがとう」は、なんか、本物だった。だから、ゆかさんに言った。

「この猫たちは、S井さんがおいていったギフトなんだよ」

「私はゴミでくらしている」と、時々、いう。

この家は、昔はそこそこ裕福だった人が建てた日本家屋。だけど、もうボロボロで、私がここに越した時、近所の人は言葉を濁し、この家に来た友達は何も言えなくて固まった。

修繕し、床を張り、漆喰を塗り、ニスを塗った。荒れ果てた、日本庭園だったっぽい庭を整備し、畝を作って野菜を育ててる。

車も、メルカリで15万円で買った運送屋が要らなくなった軽バン。ホイールや取手、ワイパーを赤にしたら、とても可愛くなった。愛車。

それをゴミにするのか、活用するのか、愛しくなるのか・・・。

何が価値の基準なのか。わからない。

どんどん消費すること。資本主義の経済を回すためには、あるものを大切にすると回らない。でも、アメリカから経済封鎖をされたキューバはあるものを大切にしないとどうしようもできない暮らしだった。

ものが無いというか、あまりない環境でどう暮らすか。

試行錯誤と、挑戦の日々だった。自分への挑戦。

S井さんが残していった猫たちも、ゴミなのか、宝物なのか、わからない。その人がどう向き合い、どう接し、どう感じ、どう考えるか。それだけなのかもしれない。

もう、わたしたちは、十分、いろんなものを手に入れた、はず。

だけど、何かが、どんどん、貧しくなっていったような気がする。

私は、経済的には貧しい。だけど、いろんなことを感じたり、考えたり、経験できたり。だから、とても豊かだと自分で感じてる。

猫と関わることで、いろんなことを感じ、いろんなことを考え、色んな経験をしてる。だから、豊かになっていっているような気がする。

まぁ、大変だけどね。

経験するって、そういうことなんだと思う。