一緒に「ぼくたちの町」で猫たちのことをやっていてよく出てくる、ゆかさん。一番身近に、私と猫とのやりとりを見ている。「しょうこさんに、猫が寄ってくるよね」という。

猫好きの女猟師、鹿っちゃは、冗談まじりに「猫使い」という。

今回は、ちょっと、頭がおかしいと思われることを書くので、スピリチュアルが苦手な人はスルーしてください。

猫たちと関わっていると、不思議だなぁと思う事がよくある。恩返ししてくれたとか、ファンタジーやそういったお得な事ではない。

猫たちには、意思があり、何か伝えたい事があるかのように、私の前に現れて、私の目をじっと見る。

私は猫だから、守らなきゃとか、助けなきゃとか、全く思っていない。猫も、人間も、じいさんも、バァサンも、みんな同じというか、みんな生き物で、それぞれが、それぞれの意思や思いがあり、で、縁があって出会った人たち、猫たち、関係性を持ったねこたち、人たちと、人生とか、猫生とかなんらかの影響をしあってるんだろう。

だから、猫も人も同じというか。あまり区別がわからない。私にとって、面倒くさい猫もいれば、面倒くさい人間もいる。

それは、死んだ人とか、そういう霊というか、それもあまり変わりがない気がする。私は、ちょっと変わった家庭環境かもしれないところで育った。父が、まぁ、霊媒師とかそう言うのだった。

死んだ人のこと、霊のことは当たり前のことだった。私には霊感の様なものはないと思っていたけど、何十年もそう言うことを当たり前のように捉えて、人間でも色々あるように、死んだ人にも色々ある。クソ面倒な霊とか、自分勝手とか、危ない霊とか。人間とあまり変わらないというか、生きているときに残した後悔の様なものを引きずっていたりする。

昔、私はよく、霊を連れてきちゃっていました。多分、この人は、聞いてくれる、もしくは、この人の父親が聞いてくれると思って、ついてくるんです。

いい人とか、なんとかじゃなく、聞く、聞こえる、そういうチャンネルがあると、わかるみたいです。

まだ、そう言うのがあまりよく分かってなかった昔は・・・例えば、困っている人がいたら、助けた方がいいと思うじゃないですか。それで、耳を傾けたりしてみたりしたんです。でも、人間もそうやっていると、関係性を持ってしまうように、霊もそうで、その関係性が必ずしもいいものではないんです。で、結構大変な目に遭ったりするんです。

猫が寄ってくると言うのは、その、霊が寄ってくると言うのに、似てるんです。だから、適当に無視します。それでも、何度も何度も、目の前に現れて、見つめられると、何か本当に伝えたい事があるのかもと考え始めます。

昨日の、ゾロの事や、以前人前に出てこないユキさんの動画を撮ったときや、今はクワタが伝えたい事がある様な気がしています。出てき方とか、立ち止まり方とか、目線とか、そう言うのが、なんか違うんです。

リラはクワタにすごーく警戒をしていて、唸ります。でも、オスで体が大きいクワタはリラが唸ると、だいたい退散します。で、私と出くわすと、私の目を見て、立ち止まります。

なんだろうね。

人間でも、それをどう捉えて、どう考えて、どうするか。相手が考えていること、望んでいることを理解できるかと言えば、そうじゃないでしょ。霊もそうで、猫もそうなんじゃないかと。

だから、猫とのチャンネルがあるからといって、全てわかるわけじゃない。人間とちゃんとコミュニケーション取れて、人間の心を感じ取れて、それで、人間の深層心理をある程度理解できて、自分はどうするか、どう対処するか、どう付き合うか。それら色々が出来ないと、人間のこともわからない様に、猫の気持ちがわかっても、どうしてあげるか、何が最善かわからない。考えるしかない。それと、全ては抱えられない。

もし、猫の気持ちを本当に理解したいのだったら、まずは自分の心の中としっかり向き合って、誠実に、深く自分を知ること。自分の弱さや狡さを知ると、謙虚さが出てきたりする。その深さと、誠実さ、人間としての謙虚さが、そのまま、周りの人や猫たちと向き合うときに、一つのチャンネルになるんじゃないかと思う。チャンネルが開通するというか。

私にとって、人間も、霊も、子供も、じいさんも、ばあさんも、みんなたいして変わりなく、同じ。生き物。誰を守るわけでもなく、助けてるわけでもなく、出会って、影響しあって、人生を歩んでるだけ。で、私は、とても、野良猫の様な人間な気がする。